wasureruonnnaのブログ

時々の呟きがテーマなので不定期ですが、読んでいただけたら嬉しいです。

「常識」への心持ち 独自の見解

皆さんお久しぶりです。

今回は、「常識」について語ろうと思います。

常識…

これは、世の中で生きる上でとても大切な要素になります。

規律ほど固いものではないが、身に着けていないと浮いてしまうかもしれない。

だから、誰しもが生きる上で自然と身に着けている人が多いと思います。

しかし、「常識」は必ずしも正しいのでしょうか?

そう、考えることがあります。

かなり漠然とした疑問ですが、日々のつぶやき、独り言として受けとって頂けると嬉しいです。

善と悪とは紙一重と思うのと同じように、常識もかなり個人によって偏りがあります。

先ほど例を挙げた善と悪の例でいうなら桃太郎の話でしょう。

おじいさん・おばあさんなどからしたら桃太郎がしてくれたことは正義の味方に映ったでしょう。

しかし、鬼側からしたら桃太郎は同族を殺した悪党に見えるでしょう。

だからこそ、善と悪は判別できない。

人によって見え方が180度違うとなれば、だれが悪いか悪くないかを決めるのは困難となるでしょう。

だから人間はルール、もっと拘束力のある法律を作ったのでしょう。

とても賢い考え方だと思います。

しかし、ある特定の人が作ったみんなのルールとなれば問題があるとは思いませんか?

そうです、人によってそのルールの見方が変わるのです。

人によっては、当たり前。

ある人によっては生きづらくなる足かせ。

これは、しょうがないのかもしれません。

だって、しょせんある特定の人が思う習慣に沿って作られているからです。

それにあふれたものを「常識」というならば…?

私は、常識にはある一種の自由と束縛を感じました。

両者とても対立して矛盾しかないと思いますよね。

しかし、これもある意味当たり前といえると思います。

なぜなら、見方によって変わってしまうのは世の常だからです。

もう、これは業ですね。 笑

話は戻って、まず自由に思うかというと、環境・個性などによって「常識」が変わるとしたら十人十色の「常識」ができ、それを制限するのも環境・個性だけだからです。

私は、「常識」が自己で生成していくことはとても尊いことだと思います。

なぜなら、日々なにかしらのことを感じ、考え、答えを出しているからだと思うからです。

それは自己の成長にとって大切な要素で人間の尊厳だと思います。

そんな尊いことが自然と星の数あると思うと自由だなと思いました。

それから逆の束縛については、ある程度大多数の「常識」をもっていないと生きずらいということです。

生きれないといっても過言ではないでしょう。

そういう意味で、世界が監獄に見えてしまう一つの理由かもしれません。

最後に「常識」についてよい面も悪い面も言いつのってきましたが、結局私が言いたいのは「常識」は法律ではありません。

なので、必要以上に縛られないでください。

そして、自身の価値観を創造していってください。

人間が人間のために作ったルールなのだから、それに縛られるのは馬鹿らしいではありませんか。

でも、良心は忘れないように。

 

では今日はここまで。

 

皆さんが少しでも幸せだと思えるように。

また、次の機会に。