感謝をするということ
私は、人の多い駅や朝の出勤・登校時・誰かに会いに行く約束のある人達にどこかどんよりとした賑やかさを感じます。
人は多いが、どんよりとした雰囲気を感じるのはきっと私自身の気持ちを写しているのだろうと思います。
きっと、毎日の出勤・登校時・誰に会いに行く約束のある人達の中に、毎日を楽しんでいる人もいるはずだと思います。
そんな人は、おそらく毎日を楽しむ術を知っているのでしょう。
しかし、私は毎日をポジティブに捉えられるほど〝できた人間″ではありません。
私が、毎日を楽しむ術を持っている人を〝できた人間″と表現するのには理由があります。
それは、私の過去の偶然の経験によってです。
私は、その日友達と一緒にある部活の大会を見に行きました。
私にとって部活の大会を見に行くのはこれで最初で最後になりましたが感ずる部分はたくさんはありました。
部活の人はほとんど関わったことない人達でしたが、まるでずっとマネージャーをしていたかのような興奮した応援をいつの間にか送っていました。
勝った時は、嬉し涙…
負けた時は、悔し涙…
私は、全ての試合が終わった時は心はまさに混沌状態でした。
ひと時でも、一緒に応援できた高揚感。
だからこそのもっと早く応援するなど何かしらに関わって手伝いたかったという悔しさ。
そして、敵味方それぞれ〝絆″が見えた気がしたのです。
〝絆″など、少し胡散臭い表現に見えますがあの空間の純粋さはまさに〝絆″と呼ぶべきものだったのです。
その〝絆″は、私は羨ましかったです。
私には、そんな純粋な空間をこれほどまで強く感じたことはないです。
これが、青春の甘酸っぱさの一部だったのかもしれないと思います。
そして、終わった後何を血迷ったのか神社のいったのです。
正直、なぜ行ったのか覚えていません。 笑
お参りをして、帰ろうとしていたところ近所の人たちなのか集まって天ぷらパーティーをしていたのです。
私が、なぜここで?という疑問の目を向けていたからなのか、話しかけてもらい、その天ぷらパーティーに参加することになったのです。
突然の参加にもかかわらず、心良くお茶やら漬物やらも出してくれて、目玉である天ぷらも皆さんが育てたり、摘んできたりなどしてと持ち寄ってきたものでした。
その集まりは、まさに暖かさの塊。
自然と長居してしまうほど居心地が良かったです。
久しぶりの感覚で涙が出そうになってきたのは先程の試合のせいにして、いろんな話をすることができました。
その中に、私はどうしてもポジティブになれないのだという相談をしてみました。
すると
「貴方には周りに感謝をすることが足りないのよ。」
と言われました。
私は考えました。
正直、わからなかったからです。
私は、感謝という言葉をまず久しぶりに聞きました。
感謝をするというのは、形に残しづらいものです。
ありがとう
どういたしまして
いつもお疲れ様
などなど、言葉に出していないつもりはありません。
何かを頂いたりすると、素直にお礼の言葉を言いますし、そのお返しも忘れていないつもりです。
それでも足りないのだろうかとその時は感じ、その時から積極的に行動するようにしました。
しかし、私はネガティブなままです。
そして、今日ある本を読みました。
前から気になっていた本でまだ数ページですが私にはそこに答えが書いてありました。
それは、簡単に言うと〝自分がした恩は水に流しても、人がしてくれた恩は忘れるな″ということです。
私は至極当たり前に思いましたが、数秒後その当たり前は消えました。
お恥ずかしながら、私は恩を対等に返すという概念が存在していたのです。
〝目には目を歯に歯を″
これは、私にとって当然なことだと思います。
今でも変わりません。
しかし、恩を売るつもりなんて少しもありませんでしたが、見返りを期待していないとは言い切れませんでした。
例えば誕生日プレゼントであったとします。
身に覚えがありませんか?
「私は〇〇をあげたけど、あの人は何を返してくれるのかな…」
などです。
私は、あります。
もうそれは当たり前に私の中に存在している考えです。
悪いとは言いません。
しかし、下心があるプレゼントは相手にわからなくても自身にはわかります。
そういう小さな恩を売る行為の返しとして貰ったプレゼントに本当の意味で感謝をしているのでしょうか。
私は、その小さな偽の感謝が積み重なったものが今のネガティブな私を作ったのだと思います。
原因はそれだけではないと思いますが、あの方が言った言葉の真意は今日の本に書いてあったのだと私は解釈しています。
知ることが出来たことが嬉しくもあり、今までの私が恥ずかしくもあります。
この問題を解決することが私の今の問題だということが知れて良かったということに今回はしておこうと思います。
私はこの反省文をここに記すことで、今までの懺悔にし、これからの私の戒めとします。
一個人の見解をここまで読んでくださりありがとうございました。
また読んでくださると嬉しいです。
今日を生きている人が少しでも生きやすい世界になりますように。
語彙力を増やしたい(切実)
私は、一つ前のブログで書いたように自身の語彙の少なさに虚しさを覚えたため行動をしてきました。
実は、このブログを開設をする前からやっていました。
その結果が出ているかは、正直に言って実感はありません。
しかし、語彙の本を読んでいると新しい発見は沢山あります。
私は、たくさんの本を読んで勉強しているわけではないので偏った知識になってしまっていると思いますが、今回はその語彙の面白さについて1つ語ろうと思います。
私は語彙の勉強の初心者として言葉の考え方についての面白さを語ることにします。
私は、今まで言葉を疑問を持たず吸収してきました。
今思うと、それはさながら赤ちゃんのようだと思います。
しかし、周りに言葉が溢れすぎて根本的な部分が見えなくなっていたからだと思います。
使うので精一杯、
使えればいい、
など、理由はいろいろありますがよく考えると疑問しかないことに気づきます。
私は、この語彙の本を読む以前からこの疑問は常に持っていました。
しかし、ありていに言えばめんどくさかったというのが本音です。 笑
なので、この私の混沌期にあえて行動してみようと思ったのです。
すると、言葉は意外に日本人の感性的なものが含まれていることがあるのです。
例えば、〝お天道様″という言葉です。
私は、自然と太陽の擬人化として受け取っていましたが、それがなぜ神様のような扱いに変換をしていたのだろうか。
と、そもそもの疑問に行き着いたのです。
私は、太陽は神様のような存在だと教え込まれてはいません。
しかし、私はこの言葉を聞いて意味を知っただけで、太陽は神様と同様敬う対象となったのです。
そして、この違和感のなさは、日本人は昔からお殿様など目上の人に〝様″をつけて差別化をしていたからという事を知りました。
私はこの考え方を知った時、日本人としての小さい頃からの刷り込みが影響しているのだと思いました。
小さい頃、多くは童話や昔話を読みます。
私は、よくお姫様や王子様が出てくる話を好んで読んでいました。
話に出てくるお姫様や王子様は、いつも煌びやかで遠い存在なことに小さいながら気づいていたのでしょう。
憧れなどの羨望の眼差しを向けていました。
そう考えると、遠い存在のものに〝様″をつけることはごく自然なことで、日本人独特なものだと実感しました。
このように私に繋げていく過程を考えると、ふと人生をも振り返させてくれます。
まだそんなに長い人生を歩んできてはいませんが、それでも今の私のできた材料はあります。
それは、言葉によって経験することから得たことが多いことに気付かされました。
そういう意味での、語彙の面白さに惹かれたのです。
と、まだまだ語彙力マスターになる道のりは長いですが初心者であるからこその実感でした。
今回も、思った以上に長くなってしまいました。
読んでくださった方はありがとうございます。
そしてまた私の呟きを聞きにきてくださると嬉しいです。
この日々を生きている人が少しでも生きやすくなりますように。
語彙の不足を感じる日々
私は、今の私が持っている言葉の限界を感じます。
例えば、友達と感想を言い合う時です。
いつも私は、
「感動しかない。」
「あの最後には驚かされたわ。」
など、抽象的に表現をしてしまいます。
この感想を聞いた同じ映画を観た友達は共感してくれるかもしれない。
しかし、映画を観ていない友達に、その映画を勧めたい時その良さを伝えられているでしょうか。
私は、よく漫画や小説をよく読みます。
そして、沢山の良作に出逢います。
涙を流しながら読むものや、1ページ1ページにクスッとした笑いを与えてくれるもの…
それを、出来るだけたくさんの人と共有したくなり、出来るだけ良さを伝えます。
でも、聞いた人はだいたい
「そうなんだ」
と、相槌を打ち、その後LINEや会話でどうであったか伝えてくれる人はほとんどいません。
しかし、世の中には人に物事を伝える人がごまんといます。
そんな人間で、世界が成り立っていると言っても良いでしょう。
例えば、商売をしている人。
商売をするということは、何かを売り買いすることだと思います。
ということは、商売人というのは人の心を動かす人間でもあり、動かされる人間ではないかと思うのです。
当たり前ですが、商売人も物を買います。
その商売人は、それを他の人に売ります。
それは、本当は凄いことなのだと思います。
どこにでも売っている商品であっても、その商品をここで買わす技術を持っていなくてはならないのです。
「当店では◯◯円安くなっております。」
であったり、
「◯◯がおまけでついてきます。」
などです。
お客さんは、それにつられてそのお店で買おうとします。
つまり、言葉は人を操ることができるということです。
いたって当たり前のことですよね。 笑
でも、私にとってこの事実が特別に思えたのです。
外にはお店が沢山あってどこも何かしらのよい情報を提示している。
そして、良い情報に動かされる。
そんな時、私は本当に単純な生き物だなと思うのです。
、皆さんも、広告を見たり、ネット通販を見たりしてよく買ったりしてしまいませんか。
その時、貴方はどこまでその商品のことを知っているでしょうか。
良い面しか見ていないことはありませんか。
もしそうであったなら、私と同様に言葉の力に操られている人間なのでしょう。
本当に、不思議ですね。
いつのまにか操られている…別段気にしていない限り人間は甘んじて操られてしまいます。
心の防衛機制は、危機的状況下にいなければ働かないということがわかりました。
話は戻りますが、私の言葉にはあまりにも情報が少ないのです。
なので、操られることはあっても操ることはないという事です。
それはとても悲しく虚しい事だと思いました。
人と気持ちを共有することが少なく、人を理解する能力も低いということだからです。
私はそんな人間を嫌悪しているはずなのに、その嫌悪する人間になっていた事実がどうしようもなく辛いです。
なので、それを打開すべく最近は語彙の本を借りて語源や、類義語など知り、ノートに書き取るようにしました。
何事も行動あるのみと意気込みやってみると、言葉は奥深い物ですね。
…と、長くなってしまいましたね。
この先は、次のブログで話すとします。
稚拙で、当たり前のことしか書いていないですが温かい目で見守ってくださるとありがたいです。
この日々を生きている人が少しでも生きやすくなりますように。
忘れる女で思い出す女
初めてのブログ投稿は、やはり私の名前の由縁について語ろうと思います。
私は、これまで嫌なことを忘れて強くあろうと虚勢を張って生きてきました。
(そこまで強くいれたかは定かではないが…。)
そして少数ですが周りからは
〝心が強い人″
と、ある意味名誉な言葉をもらうようになりました。
私は、虚勢であっても人からこの形で認められることはとても嬉しかったです。
しかし、この方法には無理があるのです。
なぜなら私は今までのことを忘れるだけであって、思い出すことは容易にできるのです。
外に出ればたくさんの情報が溢れている。
外で働いている人、
学校へ登校している学生、
はたまたどこかへ遊びに行く人達ー。
私は、そんな当たり前の日常を目にしてたくさんの問題を突きつけられるのです。
お金を稼ぐこと、
友人との関係の深さ、
安息の地ー、
そんな誰でも持っている問題を、歩いている人たちを見るだけで突きつけられてしまう。
そして、私は突きつけられていると思ってしまうほどにたくさんの虚勢を張っていたことに気づきました。
そんな時、空虚な自分を悲しく思いました。
そんな私は、まさしく〝忘れる女で思い出す女″であると思い、そのままつけたということです。
私は、至ってこの人間的な悩みをどう対処すればよいのかわかりません。
なので、悩みを書き出し、日記と言うよりは、呟きという形でブログをこれから始めようと思います。
よければ、そんな悩みの真っ最中にいる私を見守ってくれるとありがたいです。
これからもポツポツと発信していこうと思うので応援よろしくお願いします。